「また同じ話」は記憶のせいじゃない?面倒原罪という仮説

心理学

朝、テレビをつけたら「老害」の特集をやっていました。年を取ると前頭葉が萎縮していく、みたいな話が流れていて、まあ半分は聞き流していたんですけど。ひとつだけ、ひっかかった問いがあります。

「年寄りは同じ話を何回もする」——あれ、本当に老化と記憶力の低下だけが原因なんやろか、と。

もちろん、認知機能が落ちて、その話をしたこと自体を忘れているケースはあります。そこは分けて考えないといけません。でも、認知機能に特に問題がなくて、普通に仕事も生活もできている人だって、同じ話をします。

そこで、ひとつ仮説を立ててみました。忘れているんじゃなくて、同じ説明モデルを何度も使い回しているだけなんじゃないか、と。仮に親父が同じ話を繰り返す。として進めます。

人間は、毎回ゼロから考えるほど暇じゃない

人間は何かを説明するとき、毎回すべてをゼロから組み立てているわけではありません。過去の経験から「こういう状況なら、こう考えれば説明がつく」という一定の型を作ります。心理学でいうスキーマに近いものです。

たとえば仕事でトラブルが起きたとします。昔、似たことがあって、そのときの経験を当てはめたらうまく説明できた。じゃあ次に似た問題が起きたときも、その経験が使える。さらに次も使える。

何度使っても問題なく説明できれば、その経験はもう単なる思い出じゃありません。汎用的な「説明の道具」に格上げされていきます。要は、脳の中に便利なテンプレが1個できあがるわけです。一度できたテンプレを、人はなかなか捨てません。

同じ話をしとうのは、親父だけなんやろか

ここで「年寄りは同じ話をする」に話を戻します。家族で何かについて喋っている。親父の中では「これは昔あった○○と同じ構造だ」となる。そこで昔のエピソードを持ち出して説明する。家族からすれば「その話、もう何回も聞いた」となる。おなじみの光景です。

でも本人は、前に話したことを忘れているとは限りません。やっているのは、いま起きていることを説明するために、過去にうまく機能したモデルを検索しているだけかもしれない。そして検索結果の1位に、毎回きっちり同じエピソードが出てくる。Google検索でずっと同じページが1位に居座っているようなものです。そりゃ、また同じ話になります。

で、ここからが少し嫌な話なんですけど。親父が同じモデルを何度も使えるということは、そのモデルが何度も通用する場が用意されているということです。似た問題について話す、親父がいつものモデルを出す、家族が聞く、会話が終わる。しばらくしてまた似た話になる、また同じモデルで説明できる——。

これ、「親父が同じ話を繰り返している」んじゃなくて、家族という集団が、同じ構造の会話を何度も再生しているとも言えます。聞いている側も、何度も聞いたエピソードを「親父は○○という状況を、△△という原則で説明しとうんやな」と抽象化できていない。個別の昔話を、その人の「考え方」に変換できていないんですね。

それができれば「それ、前に言うとった○○と同じ構造やん」から会話を始められて、その先に進める。ところが実際は、出来事→昔のエピソード→説明→同じ結論、という同じレールを家族全員で何度も走っている。犯人は親父だけやなかった、という話です。

新しいモデルを作らんのは「面倒」という原罪

じゃあ、なぜ新しい説明モデルを作らないのか。ここで私が勝手に「面倒原罪」と呼んでいるものが登場します。

人間は基本、面倒くさがりです。というより、毎回すべてをゼロから考えていたら脳がもちません。新しいモデルを作ろうとすると、新しい状況を分析して、過去の経験と比べて、違いを探して、新しい因果関係を組んで、それを言葉にする——かなり面倒です。ところが既存のスキーマなら「これ、あの話と同じや」で終わる。圧倒的に楽です。

これは怠けているというより、人間の認知システムそのものが、なるべく少ない負荷で処理できるようにできている、と考えたほうが自然でしょう。使えるスキーマがあれば再利用する。そして使える限り擦り倒す。これが面倒原罪です。誰の中にもある、けっこう正直な仕組みなんですよ。

厄介なのは、年齢を重ねるほど「使えるモデル」が増えることです。20歳より50歳、50歳より70歳。当然、説明に使える過去の事例も増える。だから新しい問題が起きても「これは初めて見る問題だ」じゃなく「これ、昔のアレと同じや」になる確率が上がる。本来これは知恵です。経験豊富な人ほど、ゼロから作らなくても多くの出来事を説明できる。でも面倒原罪と手を組むと、「新しいモデルを作るより昔のを使ったほうが楽」という状態にもなります。

ついでに、もうひとつだけ仮説を。特に今の高齢男性は、長い社会生活で「説明する」ことを求められる場面が多かったんじゃないか。仕事の判断、トラブルの理由、部下への指示、家庭の意思決定。「なぜそうしたのか」を何十年も説明してきた。すると「何かが起きたら説明する」という行動そのものが染みついていても不思議じゃありません。そして説明するときには、長年ためこんだスキーマを使う。ここでも面倒原罪が働く。——ただし、この男女差はあくまで仮説です。社会的役割や世代の影響も大きいので、「男性の脳はこうだから」という単純な話にはしません。

知恵と老害を分けるのは、経験の量じゃない

こう考えていくと、「知恵」と「老害」は案外近いところにあるのかもしれません。経験が増える、そこからスキーマができる、新しい出来事を素早く理解できる——ここまでは知恵です。しかし、既存スキーマで説明できるから新しいモデルを作るのは面倒で、だから古いモデルを使い続ける、新しい情報が来ても更新しない——ここまで行くと、外からは「老害」に見えてきます。

違いは経験の量じゃありません。モデルを更新できるかどうかです。ここだけは、年齢とあんまり関係ないんです。

だから「また親父が同じ話をしている」と思ったとき、少しだけ視点をずらしてみる。本当に同じ話をしているのは親父だけなのか。家族全員で同じ会話を再生してはいないか。そして——ここがいちばん耳が痛いんですけど——自分自身も、使い慣れたスキーマを擦り倒してはいないか。

朝のテレビの「老害特集」を見ながら、そんなことを考えていました。人のふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもんで。たぶん私も、この話を来年あたりまた誰かにしとうと思います。面倒原罪からは、そう簡単には抜けられないようです。

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